Aloha Ka Leo O Kahi Manu





https://www.youtube.com/watch?v=ZXTC6Fr-7w0


 愛すべき声(の響き)。
 それはある鳥の歌声で、
 (まるで)私を誘っているよう(に心をふるわせる)。

 Aloha ka leo o kahi manu
 E hea mai

 どこからともなく降りてきた天の声に、そのままメロディが与えられたようなシンプルさと、なんともいえない清々しい空気感がただよう『Aloha Ka Leo O Kahi Manu』。不意におとずれた心のゆらぎが、絶妙なタイミングで切り取られた緊張感と、早鐘のように響きはじめた鼓動が聞こえてきそうな臨場感があります。

  (そんな気持ちにさせるのは)
 いつもの鳥たちの歌とは違うからなのさ。

 Lua ʻole ka mele o na* manu
 Maʻa mau no

 どこにでも、思いのままに空を飛ぶ鳥たち。その自由なふるまいは、彼らを見上げるしかない人間にとって、ときに大いなるあこがれの対象だったりします。そんな彼ら、そのなかでも選ばれしものであろうことを思わせるここちよい歌声でもって、なにかを伝えるために舞い降りてきた一羽。その突然の訪問者がまたとない(lua ʻole)歌のメッセージを携えているように感じたのは、もしかすると、すでにかすかな恋の予感があったからなのか……そんなことをつい想像したくなる、最高に幸せなフレーズがこのあと登場します。

 ぼくは幸せな気分になる。
 そう、(その歌声が)聞こえてくると。
 (だって)愛を交わそうよっていう囁き(のように思えるだろう)。

 Hauoli au i lohe mai
 Ke kono aloha e hoʻoipo

 「ぼくは幸せだなぁ」(hauoli au)……なんだかもう、愛するひとが目の前で手招きしているような、そんなテンションの高さを感じます。それだけ、これからやってくる愛のときへの期待が大きかったのかもしれませんね。あるいは、実際に愛し合っているときの喜びも、その多くは想像の産物だったりもするでしょうか……。

 さぁ、答えるよ。
 いま行くよってね。
 ぼくら二人の交流が、いつか成就する(ことを願って……)。

 Eia ka pane ka e o*
 Hoʻolauna ka*ua a pili no

 鳥の声に愛のメッセージを感じ取り、夢みた未来の訪れを確信したひとが、自らもその誘いに応えるべく宣言する。そんな勢いを感じる「eia」ではじまるこのバースには、鳥の歌声にも負けないほどの晴れやかさでもって、愛するひとへのメッセージを歌い上げているような雰囲気があります。こんなふうに、自然のあらわれと交流できる心のしなやかさが、なによりまぶしく感じられる『Aloha Ka Leo O Kahi Manu』。鳥の歌声に耳を傾けることがそもそもまれな都会の日常にあっても、他なるものを迎え入れる感受性だけは、ぜひとも持ち続けたいものです。

by Frank Kawaikapuokalani Hewett

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Kula*iwi




https://www.youtube.com/watch?v=r7yQgvKqJIM&feature=youtu.be


 太陽が昇る(東の)Ha’eha‘eから、
 ここちよい(西の)島、Lehuaまで。
 (無数の)私が、あなたの子どもとして存在する。
 Ha*loaをはじまりとする愛すべき子孫として。

 Mai ka pi'ina a ka la* i Ha'eha'e
 A i ka mole 'olu o Lehua
 Eia au ko kama e*
 He mamo aloha na Ha*loa

 「Mai~Ha'eha'e a i~Lehua」(Ha'eha'eからLehuaまで)と東西に連なるハワイの島々の全体が見わたされ、そこを「kula*iwi」(故郷)とするひとびとの思いが語られる『Kula*iwi』。Ha'eha'eはHawai'i島PunaのKumukahiにある場所で、島の東の端に位置することから、太陽が最初に現れるスポットとして詩的に表現される地名。一方、Lehuaは、ひとが暮らす島としては最も西にあるNi'ihau島の北側、海峡を経てて700メートほどのところにある小さな無人島*。こちらは太陽が沈む場所としてイメージされており、Ha'eha'eとLehuaでもって、太陽の恵みを受ける豊かなハワイの島々全体が語られる詩的表現があったりもします**。このバースでは、そんな列島の子ども(ko kama)である「私」(au)が、ここにいる(eia au)と宣言されているわけですが、それはあるひとりの私というよりも、島々をkula*iwiとして生きるひとりひとりの個人を意味するのではないかと考えて、「無数の私」と訳してみました。
 さらにこの「子ども」(kama)については、「愛すべき子孫」(he mamo aloha)であり、「Ha*loaを始まりとする」(na Ha*loa)とも表現されます。Ha*loaといえば、ハワイのひとびとのルーツを語るハワイの創世神話『Kumulipo』で、人間のはじまりが語られる箇所に登場する固有名。そこにアイデンティティのより所があるハワイのネイティブのひとびとのことが、「Ha*loaの子孫」(He mamo aloha na Ha*loa)と語られているものと思われます***。

 Hawai'iこそわがふるさと。
 遠い祖先の時代からずっと。
 (Hawai'iは)誰もお金で売り買いできるようなところではない。
 私が丸ごとそこにつながっている(いわばアイデンティティにほかならない)のだから。

 ‘O Hawai'i ku'u kula*iwi
 Mai na* ku*puna mai
 ‘A'ohe mea na*na e ku*'ai
 I ke ewe o ku'u mau iwi

 「遠い祖先の時代から」(mai na* ku*puna mai)、「Hawai'iこそわがふるさと」('o Hawai'i ku'u kula*iwi)……ちょっと大げさな印象はありますが、ハワイ人としてのアイデンティティのより所を強く求めるひとにとって、kupunaの時代からといわざるを得ないなにかがあることがうかがえる表現です。それにしても、そのふるさとが「誰かが買えるようなものではない」('a'ohe mea na*na e ku*‘ai)とはどういうことなのか……。このあたりについては、欧米化する以前のハワイでは、土地取引どころか貨幣経済そのものが存在しなかったことを考えあわせる必要があると思われます。
 19世紀もなかばにさしかかるころ、ハワイに定住するようになった欧米人の圧力を受けて、土地の個人所有を可能にすべく法整備が進められた時代がありました。そうして誕生した法律「Ma*hele」****のもと、土地をめぐる古来のヒエラルキーが解体され、ハワイでも土地はお金さえあれば買える(ku*'ai)ものになっていきます。そして、このバースでは、まさにこの土地の売買が否定されている、言いかえると、社会制度が大転換したことで、「祖先から受け継がれてきた(大地)」(mai na* ku*puna mai)が姿を変えてしまったことが問題視されているようです。
 ここで、欧米流の近代的な土地制度が導入されるまでの、ハワイ古来の共同体のありかたをたどっておきたいと思います。それは、なによりAkua(神的存在)を頂点とし、人間を超えた崇高な存在と人間の世界との間をつなぐことが政(まつりごと)であり、それを担うのがひとびとの上に立つ「Ali'i Nui」でした。そして、彼らに仕え、より地域のひとびとに近い立場で具体的な指示を与える役割を担ったのが「konohiki」で、彼らの導きのもと、日々、土地に根ざした生産活動を行うのが、いわゆる庶民階級の「maka'a*inana」ということになります。この役割分担のもとで、土地は誰のものでもなく、しいていえば、この世界そのものが、土地も含め(人間もそこに含まれる)自然環境の理(ことわり)を司る神々のものであったとされます。また「神」というと摩訶不思議な印象がありますが、「Akua」がポリネシアの古語では「死」を意味することばだったことから考えると、古代のひとびとの祈りや捧げものが意味するところも理解しやすくなります。大きく捉えると、「Akua」に対するひとびとの行いには、彼らの生活から死を遠ざけ、なにより生きとし生けるものの繁栄を祈願する思いが込められていたわけです。神々への貢ぎ物を用意するのは「maka'a*inana」であり、これをいわゆる税と考えると、封建的な社会制度の一形態といえないこともなさそうですが、重要なのは、ヒエラルキーや役回りといった違いはあっても、すべてのひとびとが「ma*lama 'a*ina」(土地をケアすること)をそれぞれの持ち場で担いながら、同じくよきものを目指していたということ。わかりやすくいえば、余剰価値を生み出そうという発想がない非資本主義的な世界で、いまはやりの持続可能な経済活動が自ずと行われていた、ということになるかもしれません。
 もうひとつ、土地は売り買いできるものではないとされる根っこのところには、土地を売ることは身内を、たとえば自分の親きょうだいを売ることに等しいという感覚があるようです。先に挙げた『Kumulipo』のPapa&Wakeaの物語に、ハワイの島々の誕生を語るくだりがあったりするのがそのあらわれではないかと考えられますが*****、この徹底的に金銭という物差しと相いれない古代のハワイ的価値のあり方に、もしかすると、現代人が取り戻すべき大切ななにかが含まれているのではないか……という気がしないでもありません。

 私は自分が愛する民族の一員として生きる。
 ネイティブの責任と権利(をより所として)。
 (ここに)その自覚のもとに宣言する。
 私はずっとHawai'i人だと。

 E ola au i ku'u la*hui
 Ke kuleana o ka 'o*iwi
 'O ka 'i* ma ka*na 'o*lelo
 He Hawai'i au mau a mau

 私は宣言する('o ka 'i* ma ka*na 'o*lelo)……ここではかなり強い仕方で、「私はHawai'i人だ」(he Hawai'i au)と自覚するひとり一人の立場から、「大切なla*hui」(ku'u la*hui)の一員、すなわちハワイのネイティブ(ka 'o*iwi)として、その責任(ke kuleana)のもとで生きるという決意が述べられています。「La*hui」は「民族」とも訳されることばですが、もしハワイのひとびとがハワイ人としての主権を持ち続けていたら、la*huiがすなわち独立した国家でもあったことは、この歌がハワイ人のアイデンティティ表明である限り、忘れてはならないように思われます。というのも、「われわれはハワイ人だ」と呼びかけるこの歌のメッセージは、裏を返せば「われわれはアメリカ人ではない」という思いでもあるはずですから……。
 タイトルの「kula-iwi」に含まれる文字通りの意味、「先祖代々骨を埋めるところ」に引きつけるならば、資本家の思うがままに売り買いされた結果、ネイティブの先祖の墓地がリゾート地になってしまっている、といった現実にも目を向けるべきかもしれません。そんなところから、ハワイのネイティブのアイデンティティが表明されているこの歌が、あの列島を訪れる観光客にとっても決して無関係ではないことがみえてくるのではないかと思われます。多くのハワイ好きが夢見る南の島は、そこに存在するさまざまな負の部分を覆い隠すことで作り上げられた幻想なのだということに、私たちはもう少し関心を持つべきではないのか……そんなことを考えさせられた『Kula*iwi』なのでした。

*:Lehuaは、Ni'ihau島の北0.7マイル(1.1 km)にある三日月形の小島。284エーカー(1.15平方km)ほどの広さの無人島ですが、上陸は禁止されておらず、シュノーケリングやスクーバダイビングで訪れることは可能。島の最高地点は704フィート(215m)。
**:「Mai ka la* 'o*'ili i Ha'eha'e a ha*li'i i ka mole o Lehua」(Ha'eha'eに太陽が現れてからその光がLehuaの地に広がるまで)。
***:『Kumulipo』では、雨を降らせる天であるWakeaと、大地であるPapaをはじまりとして、kalo(タロ芋)として誕生した兄のHa*loaに続いて、人間Ha*loaが生まれたとされます。ちなみに、「ha*-loa」の文字通りの意味は「kaloの長い茎」。そこには、栄養となって人間の命の源であり続けたkalo(ha*-loa)を、人間のはじまりのところにあったとする人間観が語られていると思われます。
****:この法律は、一般的には「Great Ma*hele」と称されますが、『Native Land and Foreign Desires』(Kame'Eleihiwa L, 1992)では、ハワイのネイティブのひとびとには利益をもたらさなかったという理由から、「Ma*hele」という用語が選択されています。
*****:まず、PapaとWakeaから生まれたのがHawai’i島、Maui島、そのあとに続いたのが娘のHo'oho*ku*kalani。二人のHa*loaはこの娘とWakeaとの間に誕生したと語られることもありますが、そのあと再びPapaとWakeaが交わるようになり、彼らからKaua’i島、Ni’ihau島、Lehua島、さらに西のKa'ula島へと続いたとされます。

by Larry Kauanoe Kimura

参考文献
1)Pukui MK: 'Olelo No'eau-Hawaiian Proverbs and Poetical Sayings. Honolulu, Bishop Museum Press, 1983, p224
2)Kame'eleihiwa L: Native Land and Foreign Desires―Pehea LA E Pono Ai? How Shall We Live in Harmony? Honolulu, Bishop Museum Press,1992, pp23-33

Halema'uma'u





https://www.youtube.com/watch?v=q88WUQscaQs


 Halema'uma'uの美しい姿をみると、
 (そこには)かの有名な女神Peleの燃え上がる炎がある。

 'Ike 'ia i ka nani a'o Halema'uma'u
 Me ke ahi kaulana a'o kawahine

 素朴で抑揚の少ないメロディラインが、なだらかな山並みを見わたすときの、なんともゆったりした気分を思わせる『Halema'uma'u』。Halema'uma'uは、Hawai'i島の南側に位置するKi*laueaカルデラ(1,247メートル)にあり、日々噴煙を上げ続けるクレーター。その自然現象を、ハワイのひとびとは「名高き火の女神Peleの炎」(ke ahi kaulana a'o kawahine)と呼び、古代から畏れ敬う対象としてきた……とことばにするのは簡単ですが、燃える大地とともにあることは、なにより危険と隣り合わせの日常を生きること。そのあたり、雄大な自然を目にしてしばし感動するだけの観光客とは、そもそもPeleとの向き合い方が違うわけですが、次のバースでは、そんな「malihini」(旅人)にとってのHalema'uma'uが歌われています。

 Peleよあなたは、旅人たちにとっても偉大なチーフ。
 このpa*hoehoeでできた大地の(主なのだから)。

 He ali'i nui 'oe na ka malihini
 O ne*ia 'a*ina pa*hoehoe

 「あなた(Pele)は偉大なチーフ」(he ali'i nui 'oe)。そして、このことは、たとえひとときそこに足を踏み入れた旅人(malihini)であっても、事情はかわらないと歌われているようにも読めます。そんなこといきなり言われてもって感じですが、後半には「ここはpa*hoehoeの大地(にほかならないのだから)」と訳せそうなフレーズが続いています*。「Pa*hoehoe」は、ある種の溶岩をあらわすことばで**、固まった表面がなめらかな、ゴツゴツしていないタイプのものを指します。粘性が低く、流れる速度が大きい場合に起こる現象で、流動性がきわめて高いハワイの溶岩流はおおむねこのタイプ。時速数キロ以上の早さで数十キロ流れることもあり、ときには海まで到達して陸地を広げていくものもあり、そうして陸地が形成されてきたのがHawai'i島の大地。だとすると、地元のひとだろうがビジターであろうが、そこに立っている限り、pa*hoehoeの大地であるPeleに従うほかないわけですね。

 旅人たちのまなざしも(壮大な光景に)感動している(のが見て取れる)。
 繊細な驟雨にしっとりぬれながら。

 Onaona na* maka o ka malihini
 I ka ho'opulu 'ia e ka ua noe

 Halema'uma'uがあるKi*laueaカルデラが位置するのは、西にKa'u*、東にPuna、北にHiloと接する、Hawai'i島でも比較的雨の多い地域。「驟雨にしっとりぬれながら」(i kaho'opulu 'ia e ka ua noe)と歌われるのは、噴煙と霧雨の双方におおわれる火口を目にするときの情景が歌われているのではないかと思われます。レインコートが欠かせない状況は、観光客にとって好ましいとはいえませんが、「なまなざしはうっとり感動するよう」(onaona na* maka)ですから、雨のHalema'uma'uもまた風情があってよし……といったところでしょうか。

 もう一度イメージしてみて。
 Halema'uma'uの美しい姿が迫ってくるその体験を。

 Ha'ina 'ia mai ana ka puana
 'Ike 'ia i ka nani a'o Halema'uma'u

 生きとし生けるものと同じように変化し続ける、物言わぬ大地。それは、われわれがそれによって支えられている限り逆らうことのできないものであり、意のままにすることはおろか、むしろ知の対象にならないなにものかのあらわれとして、全身全霊で受け止めるほかはない……。そんな紛れもない現実を突き付けてくるHalema'uma'uは、単に風景として眺めるような対象ではないと考えて、「その体験を」と訳してみました。地震、津波、火山の噴火、長引く大雨に台風等々、人間にとって不都合な現象は、とかく想定外として語られますが、人間もそういった自然の営みの一部分であること、そして、科学の知は本来的に後追いでしかないことを、われわれは今一度自覚する必要があるかもしれません。

by Maddy lam and Bill Ali'iloa Lincoln

*:「Ne*ia」は、「ke*ia」(この、これ)の同義語ですが、聖書の訳語として多用されたことばでもあることから、少しかたい印象の訳にしてみました。
**:なめらかな波紋の痕跡(縄状)を残して固まり、厚さも1メートル以下と比較的薄い「pahoehoe」に対して、表面がとげとげしくがさついた構造をしているのが「'a'a*」。粘性が高く、変形速度が遅い場合に生成する溶岩です。ただし、溶岩流には粘性が高くなると厚く短くなり流動しなくなるという性質があり、同じ溶岩流でも火口付近ではphoehoe、下流部では'a'a*などに変わる場合もあります。Hawai'i島でも、エリアによって「pahoehoe」「'a'a*」の双方がみられます。

『ハワイ語のmeleを読む会』のご案内です。

7月13日(金)、たかうち珈琲(新大阪)
http://tabelog.com/osaka/A2701/A270301/27001979/dtlmap/
19時くらいから21時まで。

参加費:コピー代のみ(飲み物などのお店へのオーダーは、各自お願いします)。

課題曲:「E Pua Ana Ka Makani」
参加ご希望の方は、hiroesogo@gmail.comまでご連絡ください(人数把握のため)。

ご参加お待ちしております。

Ku’u Lei Awapuhi




https://www.youtube.com/watch?v=gyuSgtkW6wY




https://www.youtube.com/watch?v=YhIUgjyX3Io


 聞いてほしい(ぼくの思いを)、いとしいきみ。
 霧雨にぬれる黄色いawapuhiのようなひと
 (きみは)いまここにぼくと一緒にいる。
 愛の思いにいだかれながら……。

 Auhea la ʻoe e ke aloha
 Awapuhi pala o ka ua noe
 A eia no* me a'u
 I ka poli o ke aloha

 晴れやかなメロディラインやいとしいひとへの呼びかけが、愛する喜びそのもののようにこころに響く『Ku’u Lei Awapuhi』。やわらかなミストに包まれて(o ka ua noe)まどろむようなawapuhi(ジンジャー)の花(のようなひと)が目に浮かびますし、その存在をいまここに(eia no*)、わが身とともに(me a'u)感じているようですが……注意深く読むと、そのひとはこころのなかで大切にされ、愛に包まれてはいるものの(i ka poli o ke aloha)、どうも手の届くところにはいないようにも思われます。そう、「auhea la ʻoe」(いったいきみはどこにいるの?)という独り言のようなセリフは、その呼びかけへの応答が容易には返ってこないことを知っているからこそ思わず口をついて出てしまった、そんなことばではないかと思うんですね*。

 Hui
 愛するひとよ(どうか答えて)。
 あなたはどこに(私はここにいるよ)
 (それでも)私はあなたを探し求めている……。

 E kuʻu aloha e* (e o*)
 Auhea la ʻoe (eia no au)
 A huli aku au ia* ʻoe

 「大切なあなた」(e kuʻu aloha e*)……まるでこころの底から叫んでいるような、なにか切羽詰まったものを感じさせるハイトーンの響き。メロディ自体には明るさそのものといった雰囲気もあるのですが、どことなく切なさがただよっているのは、たとえばやっとたどり着いた山頂で、晴れ晴れとした風景とはうらはらに、ひと知れず込み上げてきた行き場のない叫びに身動きできなくなる……そんな状況を思わせるからでしょうか。それでも返ってくるこだまになぐさめられながら、私はこれからもあなたに思いを寄せる(huli aku au ia* ʻoe)と歌われるところは、なかば自分にいい聞かせる、未来に向けての宣言のようでもあります。
 こんなふうに、大切なひとに伝えたいメッセージが、わき上がったことばのままにストレートに語られる『Ku’u Lei Awapuhi』。寡黙さのなかにこそ宿る豊かなメッセージが、じんわり伝わってくる一曲です。

by Emily Kekahaloa Namauʻu Taylor

*:誰かに自分の思いを届けようとすることは、相手と自分との間にある隔たりを埋めようとする行為でもあり、その隔たりが大きければ大きいほど、「あなたはどこに?」という思いも強くなるもの。「聞いてください」(listen!)の意味で慣用的に用いられることが多い「auhea~?」(where?)ですが、ここでは文字通り「あなた(の気持ち)はどこに(向かって)いるんだろう?」といいたくなるような状況で、思いの核心部分だけが歌われているのではないかと解釈しています。